【梶取先生】幼少期からの軌跡

 今回は梶取前校長にお話しを伺いました。
 多方面で武蔵について語られてきた梶取先生。現在の活動や、武蔵でのご活躍はどのようなルーツに基づくものなのか?
 その点について、今回は深く伺いました。

 ※インタビューは、2020年3月に実施しました。

小学校時代

――小学校時代の梶取さんはどんな子だったんですか?

 小学校時代の私はすごい無口だった。あの当時を知ってる人はまず教員になるってこと自体が不思議だし、まして音楽でしょ。「えー?あの弘昌ちゃんが?」ですよ。全然喋らない子とかでも、家に帰ればしゃべるんだよね。学校で口きかないだけ。今でいう不登校とか、コミュニケーション障害でもない。ただ喋らない。喋らなかったけど成績はよかったのでクラスの委員やったりとかしてた。

 5,6年を担当した先生が、体育が大好きで、何かっていうと授業が体育になるんだ。クラスに表が貼られて、何ができたって丸がつくわけ。今は怖くてできないけど、跳び箱で前転もやった。走ってジャンプして跳ぶとか。鉄棒も大車輪できるのがいたね。それで、できたら丸がついたりする。その小学校の成績は5段階だったんだけど、鉄棒の大車輪ができるようなすごいのがいたので、体育はいつも3だった。でも、今思うと私のレベルがそんなに低かったんじゃなくて、周りができすぎた。体育が好きな先生だったので皆張り切ってやっていたね。

 放課後に野球をするんだけど、勝手にユニフォームを作って勝手に背番号を割り振って。当時のジャイアンツの名監督だった川上が16番で長嶋が3番で王が1番で。そうするとみんな自分の好きな番号付けてくる。皆3番で、ずらーっと並んでるみたいな。そういう時代で野球をやってた。近所のおじさんが面倒を見てくれて、子供たちを集めて小学校のグラウンドで野球をやっていたし。今じゃ考えられないね

 家が大泉学園で、東映撮影所の周りが田んぼだったんだ。そこにいろんなものを採りに行ったりって時代だった。小学校一年くらいの時はまだテレビがない時代。テレビがある家に皆で見に行くんだ。そういう時代を想像できないでしょ。皆が貧しかったから苦しくないし、大したものを食べてなかったけど貧しいとは皆思ってなかった。そういう状況の中で、親が武蔵にやりたいってことで武蔵に来たわけ。

小学校〜武蔵時代

 武蔵に入学したのが前の東京オリンピックの翌年、1965年なんだよね。あの頃は、武蔵って今ほど受験で有名だったわけじゃない。というか、今の子は皆塾に行くけど、あの頃は今ほどの受験熱もなくて、私も塾には行っていたけれども大した勉強はしなかった。は2月1日に試験のために学校を休むというのは、当時は罪悪感があった。クラスでも中学受験するのが1人、2人だった。おそらく、今ならクラスの半分くらい休んでいるよね。例えば受験直前に風邪を引くのが嫌で一週間くらい学校を休んだりするとか、そういうのは一切なかった。

 親父が歯医者だったし、私自身は武蔵を知らなかったので、結局親の意向で受験した。小学校の時に、「父の後を継いで歯医者になる」っていう作文を書いて親を泣かせたりしたので、親にすれば歯医者にしたかったんだろうね。

音楽に関する経験

――学校時代の音楽に関する体験は?

小学校時代は音楽の体験はあまりないのだけれども、後から思い返してみると、小学校1年か2年の時にレコードを買ってもらって、それを聴いたのが最初かな。 シューベルトの『未完成』をフリッツ・ライナーが指揮しているのを聴きながら指揮者の真似したりしてた。今思うと音楽がやりたかったのかな。音楽体験ってそんなもんだよね。今ほど物がないのでそのレコードは本当に擦り切れるほど、隅々まで聴いていたよ。だから『未完成』との出会いが一番最初かもしれない。

小学校では放送部に入っていて、武蔵でも放送をやりたいなと思っていた。だから最初は放送班に入るつもりだったけれど、記念祭でブラスバンドの演奏を聞いて、3年先輩の渡辺恭一さんの指揮姿に憧れた。渡辺さんは桐朋音大でコントラバスを専攻した。読響にずっといてこの間リタイアされた方だ。

 武蔵に入ってからは、放送班が毎昼に音楽をかけていた。いつもチャイコフスキーの『ピアノコンチェルト』。当時、ほとんどの生徒が弁当を持ってきていた。その弁当箱が金属なんだ。お茶を学校で出してくれて、用務員さんがポットに入れてくれたのね。それを金物の弁当箱にいれると匂いが出るでしょ。だから『ピアノコンチェルト』聴くと、いまでもあれはクラシックじゃないと思う。聴いただけで、あの匂いを思い出す。毎日聴いていたから全部覚えちゃうよね。だからチャイコフスキーのあの曲は私の中でクラシックではないし、たぶんあの環境で育った人たちは皆そうだったと思うよ。

 音楽の泉先生の授業で、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』を聴いた。全部で16時間かかる。それをひたすら聴く時間だった。ほとんどの生徒が寝てるんだよ。それを対訳を片手にひたすら聴くだけの授業。先生はもともと音楽が専門ではなくて経済学が専門だった。ただジャズとモーツアルトのオペラが大好きで、スタジオで作曲と編曲の仕事をしてたらしい。モーツアルトのオペラは先生が亡くなった時、ご遺族から学校にCDを寄贈していただいた。『フィガロ』だけで30種類くらいあった。モーツアルトのオペラだけで段ボール二箱くらいいただいたかな。ただご歌うのは得意ではなかったので、授業は鑑賞中心だった。中1からずっと音楽史たどっていったんだ。試験は授業で聴いた曲の作曲者を当てるわけ。知っていればわかるけど、普通はわからないね。そうするとある生徒はカンニングペーパーを手に入れてくる。その順番通りに回答すれば満点になるわけね。だけど先生が気づいて1曲ずらしてかけたんだ。そうすると全部ハズレ。おおらかな時代だったね。あと、試験は「武蔵讃歌」を歌うだけ。

 先生が亡くなったとき「先生を偲ぶ会」があった。その時にOBが口々に言っていた。「あの授業、よかったよね!」って。寝てた生徒もいたけど、あの授業がなかったらクラシック聴いてないよねって。古い時代から網羅してるので知識として入ってくる。体系的に。バロックから古典、ロマン派にしてもほとんど聴いているので、大人になって興味が出てきたときに聴けるじゃない。あれはよかったかなって、皆言ってたね。

 今の生徒はクラシック聴かないよね。私もいきなり授業でクラシックやることはないし、バッハをやりながら他のものもやったり、なにかと関連づけてやることはあるけど、クラシックの音楽そのものをやろうということは今の生徒にはしない。ヨーロッパでもクラシックの音楽会って年配者ばっかりだもんね。若い世代はロックかな。あの時代でも若い人はクラシックを聴いていなかったと思うけど、でも今よりは聴いていただろうね。

 ただ覚えているのはストラヴィンスキーを授業で先生がやったんだ。その時に室内楽班の生徒はあのような音楽が嫌いで、その授業が終わった後に「イライラする!バッハ弾きてぇ!」って言っていたのを今でも覚えてる。『春の祭典』とか、ああいう破壊的な音楽は耐えられない、早くバッハ弾きたいって。クラシックにも色々あるからね。

 武蔵に入ってからすぐ音楽部に入った。ブラスバンドでは、アルトホルンをやっていた。ユーフォニウム(いまではユーフォニアムと言うらしい)を小さくした楽器。当時音楽部の同級生は10人くらいで結構多かった。当時のブラスはマーチングバンド全盛で、「ブラスはマーチだ」と主張する生徒もいるわけ。私ともう一人藝大に作曲に一緒に行った男は、ホルストのようなブラスオリジナルをちゃんとやりたいと思ってた。私はブラスバンドと合唱班をどっちもやった。

 合唱班は女子学院と交流があって、今思うと、先輩達が女子学院の生徒となんか仲良かったんだよね。じゃあ一緒にやらない?という話があって、女子学院の講堂で歌を歌いに行ったり、『狩人の合唱』をホルン二重奏でやったり、『タンホイザー』の大行進曲を女子学院の講堂でやったり。女子学院との交流は楽しかった。

 男子校なので女の子に対する興味ってみんなある。当時は軽井沢に寮があって、その近くに女子校の寮があったんだ。そこに行ってかんしゃく玉をパーンと投げて帰ってくるとか、そういう可愛いいたずらをしてた。別に何の害もなく、「入りたいけど入れない」っていう感じ。今の武蔵でも奥手はいっぱいいるけど、当時は今以上に女子校との交流はなかった。女の子と付き合ってるという話あまり聞かなかった気がする。

 高校一年の時、東京都中央音楽会で他校の生徒を含めて合唱をやったんだ。それが音大を目指したきっかけだね。それまではピアノも弾けないし、歌だって学校でやってるレベルだから、今思うと無謀だけどね。親父にそれを話しても、「お前、何考えてる」って。当たり前だよね。音大に行くために武蔵に来たわけじゃないし。

 君たち、高校生の頃、「俺ってどうなるのかな」って悩みはなかった?そういうのは世代が変わってもあるんだよね。武蔵の生徒も、漠然と大学行くとは思っているんだろうけどね。当時の自分は、「俺の人生って何なんだろう」ってずっと思ってた気がする。

 当時は70年安保の時代で、バリケード封鎖したりっていう、大変な時代だったんだよね。高校生でも大学生と一緒になって活動している生徒もいたし、卒業式もやるかどうか、卒業式のボイコットをしようって議論もあった。ヘルメットを被った先輩が講堂に乱入してきて、「卒業式粉砕!」って書かれたビラを撒く。そういう時代だったんだ。

 その由来そのものも君たちは知らないと思うけど、「赤の広場」って名付けて、当時の大坪校長と、色々と卒業式について話した。そういう時代だったので、君たちを見てると、今は武蔵生って、はじけてるように見えながら、いやぁおとなしいなって思う。あの時代は、とにかく体制的なもの全てが嫌いだった。教師も嫌だし、政治も嫌だし、とにかく反抗するのがいいみたいな雰囲気があった。藝大は二浪して入ったけど、浪人って大変だよ。

浪人時代〜大学時代〜教員時代

 当時は受験番号が掲示板に出た。だけど自分の番号ない。あの時の屈辱感というか、「ああ、あと1年棒に振るんだな」って。東大に入るために浪人ならいいよ。そうじゃなくて藝大に行ったって何になるかわからない。そういう中で2年浪人は辛い。

 浪人してる時には、ひたすらピアノを弾いていた。モーツァルトのソナタは全部弾いたよ、今は弾けないけど。ピアノの先生に「あんたは指が回らないからモーツァルトをやりなさい」って言われて。妹が使っていたピアノを弾きつぶしたからね。一日5時間くらいやった。歌を歌う時間ってそんなに長くなくて、せいぜい1時間ちょっとなんだよ。勉強は困らなかったから、ピアノしかやることがない。だからピアノはひたすら弾いたね。

 そうやって2年浪人して芸大に入った。当初は皆、結構肩で風を切ってるというか、俺は藝大生だぞという雰囲気があるわけ。だけどそれが4年生になると自信がなくなる。大学では普通就職の斡旋があるけど、藝大ではほとんどなかった。仕事は一切自分で探せ、なんだよね。

 当時は生活のためにテレビの仕事とか、日雇いのような仕事で食いつなぐしかない。譜面は易しいんだけど、「2時間後に本番です、覚えてきてください」って。そういうのばっかりだった。テレビでは「ちゃんと笑ってください」とかね。当時は面白かったけど、ただこれは一生続けることじゃないと思った。

 合唱団のバイトで、私が尊敬する田中信昭先生が指揮者としていらしたときに、団員一人一人当てるんだ。そこで「音が違ってます!」。音程が高い・低いではない。「音が外れてます」って。これには周りが凍りついたね。

そういう状況の中で武蔵で教えることになった。当時は今ほど採用に関して厳しくなかったので「ああいいよ」で通っちゃった。当初は中1と一回りしか違わないから、どっちかっていうと兄貴分の感じがあるよね。授業は本当に無謀だったね。田中信昭先生に習った中世ルネッサンスの音楽が好きで、それをいきなり中1の授業でやったんだ。四線ネウマ譜っていう、五線じゃなくて音符が四角だったり三角だったりする譜面を生徒に渡して「これを歌え」って。今考えるととんでもない授業だよね。

武蔵の今と昔

 今と違うのは生徒が元気というか生意気だったことかな。若い大学院生の講師の先生ってからかいがいがあるんだ。教え方が上手くない。確かに素晴らしい研究をしているんだけど、それを伝えるのが下手でしょ。突っこみを入れると先生も頭にくるよね。それが楽しかったね。よく遅刻する先生にも「なんで遅れるんですか」って。「いやぁバスがちょっと遅れて」、「じゃあ早く来ればいいじゃないですか」って我々がいつも言われていることを言ってた。そういう先生たちが今では皆偉くなってるよね。

 今でも覚えているのは教材を変えさせたこと。英語の授業でね、その先生がサマセット・モームの随筆を読ませたんだ。スタンダールの『結晶作用』って知らない?スタンダールの結晶作用を元に書いた随筆があってそれを選んだんだ。我々は生意気にも「これ、つまらないから教材を変えてください」って言った。そうしたら変えてくれたん。今思うとこっちが間違ってるけど、そういう生意気さがあったね。

当時学生運動が盛んだったので、先生と意見が対立している生徒に、先生が「てめぇらに何がわかる」って言うのに対して「あんたに何がわかる」って平気でやり合っていたし。

 君たち早弁ってやらなかった?授業中だよ?ないでしょ?我々はやってた。こうやって隠してやってね。なにも授業中に食べなくていいんだよ。「なにか悪いことをしたい」という思いがあったんだろうね。あと、当時は寮があって寮からパジャマで来る生徒がいたね。「お前着替えてこい」って言われても「これはパジャマじゃありません」って言ってね。そうやってわざわざ怒られることをして、怒られると反発して。そういう時代を知っているので、本当に素直だよねぇ君たちは。

 模擬試験導入した頃は先生達も反対だった。「なんでそんなことをやるんだ」「もっと他の授業やりたい」って人が先生達の中にもいたしね。生徒たちにしても「武蔵らしくない」って。でもそれは私にとってただ「逃げ」にしか思えない。教員もだよ。「これ武蔵らしくないよね」っていう言葉がね。生徒にしても何か自由で勝手なことをさせてもらえるのが武蔵らしさだって。それはある意味当たっているんだけど、手抜きだと思うよ。それって何も考えてない。だから武蔵らしさも変わらなきゃいけないし、特にこれからの時代はもっと「本当の武蔵らしさって何?」というのを探らないとダメかなと思う。伝統の中に胡坐をかいているといずれ沈没する。武蔵は受験の看板は下ろせない。残念ながら。東大至上主義じゃないって言いながら、東大に入ったのは3人ですって言ったらそれはもう袋叩きにあうし、世間から見放されるしね。でもそういう思いは今でもあるし、校長時代にもあった。

「受験勉強は自分たちでするもの」、もちろんそうなんだけど、昔の生徒は勝手に受験勉強して勝手に東大行ってた。別に東大ではなくてもいいんだよね。何故かわからないけど東大だったんだ。不思議に。皆、東大に行くもんだと思ってた。そして東大に入った。今は東大志望者はせいぜい50人くらい?80人なんていくわけないんだ。当時の、「特に理由はないけれどとにかく東大行こう」という雰囲気。良くないね。そういう意味では今の方がまともだね。

 あの時代は受験勉強は自分でやるもの、先生たちは授業で研究テーマをしゃべる、授業とはそういうものという雰囲気があった。授業で受験指導なんかしようものなら「あんた何考えてる?」っていう時代だよ。今は受験指導すると生徒も親も喜ぶしね。それでいいのかな?

武蔵の話〜今の社会について

 校長じゃないないので、このインタビューもずいぶん自由に話してる。いろいろな所で講演に呼ばれるけど、「学校ってもっと解体していいんじゃないの?」って過激な話をしてる。要するに、「学校という囲い込みをしないでいいんじゃないの」っていうこと。例えば武蔵生が火曜日に麻布、水曜日は女子学院に行って授業を受けるとかね。それで月曜日は武蔵に来て一週間の報告をし合おうってなればいいと思ってる。あと、成績表とか全部なしにしてしまえばいい。あれって生徒にとってプレッシャーじゃない?

 この間、授業でレ・ミゼラブルやった。『Do You Hear the People Sing?』で、「二度と奴隷にならないために」って歌詞があるのね。その授業で、「お前たち奴隷になってない?」って言うと、生徒は結構シーンとしてしまうんだよね。要は大人の顔色を見て、大人が喜ぶように振る舞うのって私にすれば奴隷なんだ。「ダメだよ、奴隷になっちゃ」って言うけど、やっぱりそういうところで自分の主張ができないとダメかなと思っている。

 そのまま放っておくと日本中が奴隷になる。国のリーダー達もアホかもしれない。でもそれを批判してる人間はもっとアホだよね。結果として、いまの状況を認めてしまっているわけじゃない?だから国のリーダーが良い・悪いって言うよりも、悪いのは国民一人一人なんじゃないの?って思う。何も考えないからこうなっちゃうんだよ。リーダー達がどうしようもないことやったら当然政権交代するよね。それがのほほんとしていられるのは我々が、「まぁしょうがないか」って思っているからだよ。政権をひっくり返せと言っているのでなくて、もうちょっと真面目に考えないと日本って危ないんじゃないの。

 教育にしても今の体制のままでいったら先はない。そういう話をあちこち講演でもしてる。今の子供たちがちゃんと生きられるようにするのが大人の役目だよ。「スマホ依存が悪い」って言うじゃない。ただそういう風に仕向けているのは大人たちだよね。電車に乗ってみんな使ってて、家に帰って「お前、何使ってるんだ」って言ったって、子どもは言うこと聞かないよね。だから大人がそんな使い方やめるべき。私も含めて、大人の責任は、ちゃんとした世の中を次の世代に渡していくことだよね。それをサボっちゃいけない。校長をやめてもそういう発信はしていきたい。

 教育関係者だけじゃなくて全員が子供たちのこと考えないとダメなんだ。自分の子供がかわいいのは当然だよ。だけど自分の子供がじゃなくて世界の子供がちゃんと安心できるような世界をつくろうってね。世界を見れば、厳しい現実の中で暮らしている子どもがたくさんいる。それは大人がサボっているからだと思う。

 当時は大人たちも、反体制かどうかは別として色々な事を考えていた。政治家にしても、右も左も信念を持っていたよね。そういう政治家が減ってきてる。信念をもっていたら右だって左だっていいんだ。大人がもっと賢くならないと大変かな。

 大戦が始まった時、私はまだ生まれてないけど、昭和16年の12月8日は、「ああ、戦争が始まったんだ」って雰囲気だったと思うんだ。「日本は勝てる!」と思ったんじゃない?いまも、どこかの国が「戦争します」と言ったら「ああ、そうか」って雰囲気になりそうだって感じるね。それはやっぱり怖いよね。

 大人がものを考えていないから、コロナウイルスの脅威より、ある民族・国に対する差別的な発言・行動が起きる。起きているでしょ、実際に。アジア人はレストランに入れないとかね。今までの鬱積したものに対するはけ口で、人・国を攻撃する。これは怖いよね。そういうものを煽る社会もね。もうちょっと大人は真面目に考えてほしいなって気がするな。

 社会構造も変わってきてるでしょ。今生徒と一緒に稲作と太極拳を総合講座でやっている。生徒の稲作のプレゼンの中で、農業人口が減っているという話が出た。実際減っている。逆に若者は流入してきてるんだよ、農業に。何故かというと、まず興味がある人がいる、それは間違いない。世の中でもっと自然相手のことをしたいって人が一定数いる。それと同時に、就職したはいいけども全然自分のやりたいことじゃないって人が農業に流れてくる。そういう人が結構いるんだよね。

 生徒のプレゼンの中で、労働人口が減った時にAIに取って替わられるという話もあった。採算を度外視すればその時代は確実にくる。例えばボタンを押せば、全部ロボットがやってくれるような。じゃあ、人間がやることって何? いわゆる農作業ではないよね。農業も漁業もそうだし、植物だって育てるのにもう土要らないでしょ?水耕栽培できるよね。

 魚にしたって養殖技術が進めばもう漁に出るという感じではなくて、完全に工業製品になるよね。じゃあそうなった時に我々は何をするか、という時代にもうすでになってきている。 だからAIが悪いわけじゃなくて、AIに任せられることは任せてしまえば、歳を取って体が動かなくたって畑作業はできる。

 遺伝子組み換えについても、一応安全ってことになっている。おそらく一生食べ続けても害は出ない。でもそれが2代3代後になった時にどういう影響があるかは誰にもわからない。遺伝子組み換えもそうだし、農薬にしても一応大丈夫だってことになってる。だけどそれが1世代では危険ではないけど、その先どうなるかはわからない。わからないので色々な意見が出てくるけど、怯えることはないし、かといって「安心だからいいよ」ということでもない。実際には本当に、「自ら調べ自ら考える」しかないんだよね。

 だからコロナウイルスも結局どうするかの判断は一人一人に委ねられている。世間が何言おうが自分がどうするっていうことを大切にしてほしいね。

 農業に限らず林業もそうだし、いわゆる一次産業的なものに向かう人は増えてきていると思う。実際に農業人口も高齢化が進んで専業農家は減っているけど、逆に外からの流入はたぶん増えてきている。

 日本全体で言えば人口減少だよね。島根も鳥取も人口は減っている。一だけど去年の暮れに鳥取に行ってわかったことは、若者というか30代くらいの人が入ってきているんだよね。

 そういう人たちの力って結構大きい。入ってきて引っ掻き回して終わりではなくて、地元とうまくやっている。地元とうまくやらないとダメなんだ、そういう活動って。つまり異分子が入ってきて掻き回しても地元は面白くない。だから地元と一緒に何かするんだよね。

 熱海に講演に行ったときも、市の人と話したらそういう動きは熱海でも出てきてるらしい。どうやって街を変えていくかっていうことも考えてる。熱海の高校生たちともフォーラムやりたいと思った。社会構造そのものが変わってきて、それで教育も変わるよ、間違いなく。

 さっき言った「学校が壊れる」って話をもう少し続けよう。MOOCsって知ってる?アメリカのハーバードなど一流大学が無料で授業公開してるんだ。誰でもタダで受講できる。試験を受けて上手くいけば実際に米国に行ける。貧しい国でもネット環境さえあれば見られるんだよ。実際にそういう例もあって、すごく貧しい国ですごく勉強してハーバード行っちゃうとかね。

 ネットのいいところは、何かわからないことを質問すると全世界から答えが来る。「こんなことわからないんですけど」って言うと、救いの手がくる。時代はそこまで来ている。

 そうすると「学校教育って何?」になる。「武蔵にいらっしゃい」っていう時代ではもうないんだよ。他校にしてもね。どこかの大学に属してることがステータスになって将来いいというわけではまずない。君たちにしてもね、僕こんなことができますじゃないと意味がない。だから大学はどこでもいいし、「こんなことに興味があって、これ出来ます」って言うとクラウドファンディングでお金が集まるかもしれない。

 教育にしてもネット上で素晴らしい授業が公開されていて、興味があればそれを受講すればいい。別に特定の大学に行かなくてもいいわけ。そういう時代だから、もう教育も変わるし、社会も変わる。

 よく言われるのが何十年か経つと「ある職業がなくなる」って言う話。確かにその時代に入ってきてる。弁護士とか医者とか、今あるような区分けではない仕事がたぶん出来てくる。そうするともう理系・文系は意味ない。「自分がこんなこと好きです」「こんなことやりたいです」「こんなことやらせてくれますか」って言うと、「じゃあうちくれば」って話になる。君たちが社会に出るころか、数年先かもしれないし、そういう時代の中でどう生きるか。君たちもそうだし武蔵生も、それに小学生たちもね。

 そういう意識がまだ親にはないので、どこかの学校に入れたら「将来安泰の道があるんですか?」って。そんなものはない。もう自分で掴むしかないよね。武蔵を出て、東大に行って、どこかの企業入ったって、その企業でずっと安泰かどうかなんてわからないしね。そうなると本当に自分でやりたいことを持っていて、それでもって勝負できるか考えなきゃダメ。

 逆に言えば、どこにいてもいいし、グローバルって別に日本にいたってグローバルになれる。ネットがあるわけじゃない。そうすると英語はたぶん使えないとだめだよね。でも別に英文学読むわけではないので、普通の企画書が読めれば大した英語力じゃなくていいわけだよね。良いことか悪いことかはわからないけど、世界が英語中心で回っているわけだから、英語は理解できないとそれは話にならない。そういう中で私にしても君たちにしてもどうやって生きていくかじゃないかな。